手をつなぐ
日々のこと、好きなもののことなどツラツラ書きます。
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小さないとなみのこと
- 2016/12/22 (Thu)
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少しだけ。
高木さんの書いてた話がとても良かったのと色々思ったことがあって。
http://www.cinra.net/interview/201612-tomorrow
義父が常々震災のことを話していて、結局のところ田舎で自給自足が一番いいと言っている。
熊本の地震のときに井戸水がいかに役立ったか、とか。
ホンマにそうなんやろうな、と思う。
文中にあった、”…そのときに、「余っているから野菜をどうぞ」って言うのと同じように、自分の暮らしから溢れてきた技術や作品をお裾分けできた人もいたし、そうじゃなくて、「みんなが生きるべき社会のかたちはこうだ」「人間はこうであるべきだ」と頭で考えて発信していた人の、大雑把ですが、2種類の人たちがいるなと思えたんです。
人を動かしたりつなげたりできる人は確かに社会を動かします。でも、その人自身が理想とする社会や生き方があるのなら、その理想に向けた暮らしをちゃんとしている人がいいなと思ったんです。”
の部分、これ私も思ってて、こうやって文字として可視化されたことで、そう!って改めて思えた。
私の知り合いに社会運動をしている人たちがいて、その人たちの言ってることとか本当にその通りなことが多くて、そうやなそうやなって思うんやけど、ずっと言葉にできない何とも言えないモヤモヤ感が心の中をくすぶっていて。
でもこれって言っちゃうと絶対ダメなことな気がして言えなくて、でも違和感だけはあって。
こうあるべきっていう社会の在り方を提示しているその人が、家の中は埃だらけでジャンキーなものばっかり食べてて自分の心と体を全然大事にしていなかったりすることがある、と思う。
(私の知らないところでは本当はちゃんとしているのかもしれないし、そうだったらごめんなさいやけど…)
なんか、そういうのがあんまりいいと思えなかった。
今、街なかに住んでいると、たとえば季節の移ろいを楽しんだりそういうのって本当に難しいし、そういうことが無意味とまでは言わないにせよ、個人の娯楽というか好きなことして楽しんでいるだけって思われることすらあると思う。
でも、そういうことをせずして生きる意味って何かあるのかな、と思う。正直。
気持ち良く、幸せに生きるためにできることって大きな何かを一気に変えようとすることだけじゃないと思うのです。
小さなものを慈しむ気持ちや大事に大切に育もうとすることだってすごく重要じゃないのかと。
本当に些細で微力やけど、そういう小さな営みの美しさを守ろうとすることも、過度な効率化や欲望の渦巻きに飲み込まれないための抵抗やと思う。
(なんだかエラそうに色々言ってるな…)
でも、こういう、普通の当たり前ともいえる感性をもって生きるということをずっとやっていきたいしそこは守りたいことやなと改めて。
そして一個一個、ひとつずつひとつずつ。
(↑まゆみさんが私がせわしない気持ちになっていたらいつも隣で言ってくれていた言葉!)
最後、謎の決意表明みたいになったけど。
はぁ、勢いで書いてしまった。
娘が昨日手に入れたクマのぬいぐるみの足をギュッと掴んで寝ている。
離そうとしたら更に強くつかむのでそのままに。
ドイツから来たクマさんで、胸に割れない鏡がくっついてて、耳はカシャカシャ鳴って、胴と足はつるつるしている。
そして手には大きなお手玉がくっついてある。
夫が昨日、彼を、”おて・だまお”と名付けた。
ドイツから来たのにめっちゃ和名。
夫曰く、正式には”ダマーオ”なんだと。
”オテ・ダマーオ”
笑った。
なんか終わると言って終わってない…!
しかも書いたら少しだけじゃないやん、これ。笑
ま、いっか。
今度こそ、良いお年を!
めぐみ
- 2016/12/21 (Wed)
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実は昨日の夜なんとなく寝つけなくて、ここにつらつらと打った文字があったのだけれども
今朝がた恥ずかしくなってきて消してしまった。
でもそれを読んだ人が既にいるらしい。(例のアナライズ機能により判明)
まあ…いっか。
最近なぜか楽器を弾けなくて。
でも冬至の今日を境にまた弾けるようになったらいいなと思っている。
太陽の再生を喜ぶ日。
こうして文字を打っていても言葉がうまく出てこない。
こういうときは何もしない方がいいのかもしれない。
出てこないのに出そうとして、終わろうとしたのにまだ続けてたりして。
悶々。
早くお餅つき行きたいな。
ずっと親しくしてくださっている前の職場の先輩がおいでよと言ってくれていて、娘も夫も一緒に行く。
近所の人たちもみんな集まってきてわいわいと毎年やっているらしい。
まゆみさん。
大好きな人。
まゆみさんのメールはとてもあっさりしていて、それでもその中に、労いの言葉やさりげない季節のあいさつなんかがそっと含まれている。
何より、大事なことや込み入ったことは会ったときに、というのがとてもいい。
その昔、まゆみさんのご実家の畑仕事を手伝わせてもらったことがあった。
ミミズがたくさん出てくる良い畑でカエルとかもいて。
街育ちの私はそのいちいちがイチイチびっくりで、ワーキャー言っては笑われた。
たしか仕事を辞めてしばらく経った頃で、私は色々すっからかんになっていた。
帰りに野菜を持たせてもらって、それがまた美味しくて。
嬉しかったなぁ。
あのときも何気なくおいでよと言われたんやった。
まゆみさんの夫のこうじさんも何気ない優しさ気遣いに溢れた人で、その二人から生まれたなおちゃんかえちゃんもとても可愛くて。
お餅つきのことをちょっと調べてみたらこんなことが。
「お正月のお餅には特別な意味があります。古来より、新年を司る「年神様」という神様が元日にやってきて、新年の魂(年魂)を授けてくれると考えられてきました。ここでいう魂とは、生きる気力のようなものです」
ここに書いてました。→ https://allabout.co.jp/gm/gc/460433/
お年玉とも関係があるんやね。
年玉=年魂。魂を分け与えるか。
知らなかった!
「お年玉の語源は、供えた餅をお下がりとして子供たちに食べさせ、「御歳魂(おとしだま)」と呼ばれたことからとする説がある。 また、この餅は年初に分配されることから、年の初めの賜物で「年賜(としだま)」が変化したとする説や、鏡餅が丸いことから「お年玉」になったとする説があり、いずれも歳神に由来する。」(語源由来辞典より)
娘を連れていけるの、嬉しいな。
これを知ってなおさら楽しみになってきた。
あ、呼んでる。
ちょっと書いたら楽しくなってきて、良かったです。(この独り言らしからぬ言いかた…!)
高木さんの「めぐみ」、娘とこれから一緒に聴こう。
少しばかり早いけど新しい一年も良い一年でありますように。
心も身体も温かく、ぽかぽかと迎えられたら。
そんな新年の幕開けを祈念して。
これ、実際に見たことある。笑
奈良駅の近くの和菓子屋さん。ちょっとすごいしおもしろい。
https://www.youtube.com/watch?v=cGeUE9KK-es
追記
探したら、畑仕事した日の記録があった。6年ほど前のことらしい。
「…
畑はまゆみさんのお父様が所有されているもので、
専業農家ではないけれど
トラクターもあって、耕作は本格的だった。
お父様と叔父様が慣れた手つきでどんどん畑の土を
耕していく。
何度もトラクターが畑を縦横に行き来する様をじっと見ていた。
土を耕すだけでも予想を超えて大変な作業だ。
私は草抜きを主に手伝わせてもらった。
目の前に山々が連なる中でひたすら草を抜いた。
長靴に麦わら帽、手には軍手をはめて。
ときどき、土に混じって茶色い殿様ガエルが飛び出してきた。
そのたびに「ぎゃー!!」と奇声を発し、
とっさに立ち上がっては逃げ出してしまった。
なんとも効率の悪い草抜きで
非常に申し訳なかった。
でも、あのいつ飛び出すかわからない予測不能さ、
そして意外なまでの俊敏さ!
情けないけど、カエルは怖い。
でも、土に触れながら
土の匂いを嗅ぎながら
殿様ガエルに怯えながら草を抜くのは
なんだかとても素敵だった。
大げさかもしれないけど、人間で良かったなぁと思った。
畑の中で私は、土でもなく、カエルでもなく、
トラクターでもなく、人間で。
うまくいえないけど、人間だった。
そのことがなんかいいなぁと感じた。」
めぐみ!
https://www.youtube.com/watch?v=3gPbHhHwLIc
奇跡のような
- 2016/11/28 (Mon)
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閉める、ではなくて。
そもそも一時期に比べて書く頻度もすごく減っていて、それをなぜまた書き出したかというと、高木さんの『山咲み』があまりに素晴らしかったからで。
本当に久しぶりの純粋な感動と心洗われる感じを味わって。
このことを自分の中でだけ完結させたくない、誰かわからないけどどこかの誰かにも伝えたいと思った。
ほとんど衝動的に。
で、その目的はとりあえず達成されたのかな、と…。
なんとなく自分の中で納得がいったというか。
もう高木さんも新しいところへ進んで行くと言っているし、うん…。
たぶんこれからも高木さんの音楽はうちの小さな娘と一緒に聴いていくと思うけど。
いつか娘と一緒にコンサートに行けたらいいなと思っている。
…
今、娘を育てながらときどきとてつもなく不安になる。
子育てに関してではなく、この社会、この世界、この地球に関して。
この子が生きる将来にはどんな景色が広がっているんやろう…。
今、どこを見てもいがみ合う人たちがいて、ネットの中は酷い言葉で溢れかえってもいる。
綺麗なものがどんどん減って、輝きを失って。
これから先、くすんだ灰色の世界が待っているんじゃないかってそんな風に感じて暗澹とする。
あまり希望が持てないな、と。
そんななかで山咲みを観て、本当に綺麗なものを見せてもらえた気がして。
曇りのない、清流に触れたかのような。
高木さんの奥さんのみかをさんの絵本『かがやき』も毎日娘と読んでいる。
やさしい絵と素朴なことば。
夫婦いつも寄り添いあって作品を作ってはるんやなぁ、助け合って暮らしてはるんやなぁと。
そういうのもなんだか温かい気持ちにさせてくれた。
私と夫もいつも助け合っている。
本当に何でも相談して、思いつきで適当なことを話したりもできて、でもときどきたしなめられたりもして。
夫も私に何でも相談して、ときどき私が夫をたしなめたりもする。
夫は私にとってとても縁のある人なんやろうな。
夫にとっての私も。
こんふうに直接出会ってひきあう縁もあれば、あるとき偶然出会う本や音楽…その創り手との出会いもまた縁なんやろうな。
必然なのか偶然なのか。
もしかしたら奇跡のような必然なのかもしれない。
そう思ったら、また少し希望が湧いてくるような気がする。
そんなことを思いながら。
(こんなこと言っといてまたなんとなく書くかもしれないけれど…!)
おやま
- 2016/11/26 (Sat)
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もしかしてそうなのかな、いやいやまさかね、いや、でも…というのは、大抵そうであることが多い。
こういうのははたしていいことなのかどうなのか、よくわからない。
知らない方がいいこともあるから。
最近もちょっと、おや?と思うことがあって…
でも、やっぱり、これは気のせいやと思うことにした。
徒然。
…
最近、娘の子守り歌として、高木さんの「おやま」という曲を歌っている。
山咲みコンサートのDVDを流しているとき、娘がこの曲の演奏場面で寝入ることが多いのに気付いてから、それで。
本当に不思議なくらいスイッと眠る。
私もつられて一緒に寝てしまうことがある。
今日は側で私の歌を聞いていた夫が娘よりも早く寝息を立て出してビックリした。
歌っていて、ざわざわした気持ちがさらさらしていくような。
この曲の詩の世界も好き。
静かな情景が浮かんでは消えていく。
癒しの曲やなぁと思う。
書いてたら脳内再生されだして眠くなってきた。
今日という日にさようなら。
明日がいつもと同じようにやってくることを祈って。