手をつなぐ
日々のこと、好きなもののことなどツラツラ書きます。
カテゴリー「旅」の記事一覧
- 2010.08.25
道東へ4 北方民族とクマの話
- 2010.08.23
道東へ3 網走監獄
- 2010.08.22
道東へ1
- 2010.07.19
楽しいことへ
道東へ4 北方民族とクマの話
今日偶然、韓国からの留学生と思われる女の子二人の
楽しげな会話を聞くことができた。
いわゆるガールズトーク。
「化粧水は何使ってる?日本製?」
「やっぱり日本製は質がいいよぉ。あ、でもクリームは韓国製のがいいけど」
「てか、前会った立命館のオッパ(お兄さん)、かっこ良かったよね」
「思い切ってこっちから連絡しちゃいなよー絶対いけるって!」
「あー、やっぱり私、背の高い人がいい!あのオッパ背が高いからいいの」
高音かつ早口の韓国語で交わされる会話。
その会話に時たま耳を傾けながら、
ひたすら『北方民族を知るためのガイド』を読んでいた私です。
・・さて。
北方民族の話、してもいいですか?笑
北方民族の文化ではクマが神聖視されている。
このことは「道東へ2」でも書いたとおりなんやけど、
これは北方で暮らすほぼすべての民族(アイヌもイヌイットもその他すべて)に
共通することであるらしい。
これは実は朝鮮の建国神話にも通ずる話で・・・。
古朝鮮(コヂョソン)という国の建国神話にもクマが重要なキーワードとして出てくる。
以下、建国神話の内容。(読みにくい人は飛ばし読みどうぞ。)
『三国遺事』が引用する「朝鮮古記」によれば、桓因(かんいん、환인、ファンインないしファニン)の庶子である桓雄(かんゆう、환웅、ファンウンないしファヌン)が人間界に興味を持ったため、桓因は桓雄に天符印を3つ与え、桓雄は太伯山の頂きの神檀樹の下に風伯、雨師、雲師ら3000人の部下とともに降り、そこに神市という国をおこし、人間の地を360年余り治めた。
その時に、ある一つの穴に共に棲んでいた一頭の虎と熊が人間になりたいと訴えたので、桓雄は、ヨモギ一握りとニンニク20個をあたえ、これを食べて100日の間、太陽の光を見なければ人間になれるだろうと言った。
上の話を口語調でわかりやすく説明したのをweb上で発見したので
引き続き興味ある人はどうぞ。
「むかしむかし、天帝の桓因(ファンイン)という神様と、
その息子の桓雄(ファヌン)という神様がおったそうな。
2人の神様は平和な生活を送っていたんじゃが、
桓雄はいつも地上の人間界のことが気になってたそうな。
そこで、桓因は桓雄に天符印を3個与え、天から降って人間界を治めさせることにしたのじゃ。
桓雄がお供を連れて降り立ったのは太白山という場所じゃ。
その時、太白山の洞窟の中に住んでおった熊と虎が、桓雄に対してこう申したのじゃ。
「自分達を人間の姿にして下さいませんか」と。
そこで桓雄はモグサ1束とニンニク20個を与え、
「これを食べながら100日間日光を避けて過ごせ」と仰った。
それから21日経った日のこと、熊は女の姿になったそうじゃ。
女の姿になった熊女(ウンニョ)は、その後「子供が欲しい」と桓雄に願い出たのじゃ。
そこで桓雄は熊女と一晩を共にした。すると、熊女は男の子を産んだではないか。
2人の間に生まれた子供は「檀君王倹」と名付けられたのじゃ。」
・・
虎は逃げ出し、熊は人間となった。
そして人間となった熊は神と共に人間を産んだ。
北方民族にとっても朝鮮民族にとっても“クマ”はどうやら神聖な生き物であるらしい。
それにしてもなぜクマなのか。
網走から阿寒湖へと向かう道中、父と二人でこのことについてしばし話し込んでいた。
アイヌの人びとはクマを捕まえたとき、子グマはその場で殺さずに村につれてかえり、
神として1年ほど大切に育て、クマ送りの儀式の時に神の国へ送りかえしたという。
・・今ね、『アイヌ文化の基礎知識』を取り出してみた。
この本、すごい詳しくって。
P159「クマ祭りとは何か」。
あった!
「クマは神の国からやってきてこの世でクマという形に化身し、人間界を訪れにきた
食料の神なのです。
山で射った成獣にしろ、飼育した子グマにしろ、神の国からやってきて
クマという現世の姿に化身して人里を訪問しに来たとアイヌの人々は考えました。
山でクマ猟をするときも、決して殺すという観念はなく、
あくまで"出迎えにいく"、"受け取りに行く"というのです。」
ほぉー!!
あ、しかも、クマだけじゃない、シマフクロウの霊を送る儀式もあったんや。
絶滅したエゾオオカミやワシやタカも丁重に送られていたらしい。
「アイヌの人々はこの世に存在するすべての事象には魂が宿っていると考えていました。
乱造、余剰生産というのは、かつての人びとの間にはあるはずもなく、
あくまで必要だから作る、それが人間の暮らしに大きく貢献するという観念ですから、
壊れたり、年数が経って古くなったり、種々の理由で必要がなくなれば、それは
そのもののこの世における役割が終わったのだと考え、神の国に送ってやるのです。
神の国にもどるとまた新しい生命が宿りそこでよみがえるのだ、と考えられてもいたのです」
ほぉ~~~~~!!!!
この話、朝鮮の建国神話にもつながるなぁ。
熊女と神から生まれた人間(檀君)が国を創ったという古朝鮮建国神話と、
クマは神の国からやってきたと理解するアイヌ民族。
同じような意識があったと考えられるよね。
おもしろいなぁ。
ねぇねぇ、それにしても。
北方民族の人たちの精神世界やそれに付随する生活は
すごく 素敵やと思いませんか?
今回の旅ではこれについて実はまた色々思ったことがあったんやけども・・・。
続く。
楽しげな会話を聞くことができた。
いわゆるガールズトーク。
「化粧水は何使ってる?日本製?」
「やっぱり日本製は質がいいよぉ。あ、でもクリームは韓国製のがいいけど」
「てか、前会った立命館のオッパ(お兄さん)、かっこ良かったよね」
「思い切ってこっちから連絡しちゃいなよー絶対いけるって!」
「あー、やっぱり私、背の高い人がいい!あのオッパ背が高いからいいの」
高音かつ早口の韓国語で交わされる会話。
その会話に時たま耳を傾けながら、
ひたすら『北方民族を知るためのガイド』を読んでいた私です。
・・さて。
北方民族の話、してもいいですか?笑
北方民族の文化ではクマが神聖視されている。
このことは「道東へ2」でも書いたとおりなんやけど、
これは北方で暮らすほぼすべての民族(アイヌもイヌイットもその他すべて)に
共通することであるらしい。
これは実は朝鮮の建国神話にも通ずる話で・・・。
古朝鮮(コヂョソン)という国の建国神話にもクマが重要なキーワードとして出てくる。
以下、建国神話の内容。(読みにくい人は飛ばし読みどうぞ。)
『三国遺事』が引用する「朝鮮古記」によれば、桓因(かんいん、환인、ファンインないしファニン)の庶子である桓雄(かんゆう、환웅、ファンウンないしファヌン)が人間界に興味を持ったため、桓因は桓雄に天符印を3つ与え、桓雄は太伯山の頂きの神檀樹の下に風伯、雨師、雲師ら3000人の部下とともに降り、そこに神市という国をおこし、人間の地を360年余り治めた。
その時に、ある一つの穴に共に棲んでいた一頭の虎と熊が人間になりたいと訴えたので、桓雄は、ヨモギ一握りとニンニク20個をあたえ、これを食べて100日の間、太陽の光を見なければ人間になれるだろうと言った。
虎は途中で投げ出し人間になれなかったが、熊は21日目に女の姿「熊女」(ゆうじょ、웅녀、ウンニョ)になった。しかし、配偶者となる夫が見つからないので、再び桓雄に頼み、桓雄は人の姿に身を変えてこれと結婚し、一子を儲けた。これが檀君王倹(壇君とも記す)である。
檀君は、堯(ぎょう)帝が即位した50年後に平壌城に遷都し朝鮮(조선)と号した。
以後1500年間朝鮮を統治したが、周の武王が朝鮮の地に殷の王族である箕子を封じたので、檀君は山に隠れて山の神になった。1908歳で亡くなったという。
(wikipedia 「檀君朝鮮」より引用)
上の話を口語調でわかりやすく説明したのをweb上で発見したので
引き続き興味ある人はどうぞ。
「むかしむかし、天帝の桓因(ファンイン)という神様と、
その息子の桓雄(ファヌン)という神様がおったそうな。
2人の神様は平和な生活を送っていたんじゃが、
桓雄はいつも地上の人間界のことが気になってたそうな。
そこで、桓因は桓雄に天符印を3個与え、天から降って人間界を治めさせることにしたのじゃ。
桓雄がお供を連れて降り立ったのは太白山という場所じゃ。
その時、太白山の洞窟の中に住んでおった熊と虎が、桓雄に対してこう申したのじゃ。
「自分達を人間の姿にして下さいませんか」と。
そこで桓雄はモグサ1束とニンニク20個を与え、
「これを食べながら100日間日光を避けて過ごせ」と仰った。
それから21日経った日のこと、熊は女の姿になったそうじゃ。
女の姿になった熊女(ウンニョ)は、その後「子供が欲しい」と桓雄に願い出たのじゃ。
そこで桓雄は熊女と一晩を共にした。すると、熊女は男の子を産んだではないか。
2人の間に生まれた子供は「檀君王倹」と名付けられたのじゃ。」
・・
虎は逃げ出し、熊は人間となった。
そして人間となった熊は神と共に人間を産んだ。
北方民族にとっても朝鮮民族にとっても“クマ”はどうやら神聖な生き物であるらしい。
それにしてもなぜクマなのか。
網走から阿寒湖へと向かう道中、父と二人でこのことについてしばし話し込んでいた。
アイヌの人びとはクマを捕まえたとき、子グマはその場で殺さずに村につれてかえり、
神として1年ほど大切に育て、クマ送りの儀式の時に神の国へ送りかえしたという。
・・今ね、『アイヌ文化の基礎知識』を取り出してみた。
この本、すごい詳しくって。
P159「クマ祭りとは何か」。
あった!
「クマは神の国からやってきてこの世でクマという形に化身し、人間界を訪れにきた
食料の神なのです。
山で射った成獣にしろ、飼育した子グマにしろ、神の国からやってきて
クマという現世の姿に化身して人里を訪問しに来たとアイヌの人々は考えました。
山でクマ猟をするときも、決して殺すという観念はなく、
あくまで"出迎えにいく"、"受け取りに行く"というのです。」
ほぉー!!
あ、しかも、クマだけじゃない、シマフクロウの霊を送る儀式もあったんや。
絶滅したエゾオオカミやワシやタカも丁重に送られていたらしい。
「アイヌの人々はこの世に存在するすべての事象には魂が宿っていると考えていました。
乱造、余剰生産というのは、かつての人びとの間にはあるはずもなく、
あくまで必要だから作る、それが人間の暮らしに大きく貢献するという観念ですから、
壊れたり、年数が経って古くなったり、種々の理由で必要がなくなれば、それは
そのもののこの世における役割が終わったのだと考え、神の国に送ってやるのです。
神の国にもどるとまた新しい生命が宿りそこでよみがえるのだ、と考えられてもいたのです」
ほぉ~~~~~!!!!
この話、朝鮮の建国神話にもつながるなぁ。
熊女と神から生まれた人間(檀君)が国を創ったという古朝鮮建国神話と、
クマは神の国からやってきたと理解するアイヌ民族。
同じような意識があったと考えられるよね。
おもしろいなぁ。
ねぇねぇ、それにしても。
北方民族の人たちの精神世界やそれに付随する生活は
すごく 素敵やと思いませんか?
今回の旅ではこれについて実はまた色々思ったことがあったんやけども・・・。
続く。
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道東へ3 網走監獄
北方民族の続きを書こうと思ったけど、
その前に網走監獄の話をしたくなった。
網走監獄とは・・・
「かつては日本で一番脱獄が困難な刑務所だと言われ、(中略)、
また、施設の劣悪さと凶悪犯が多いというイメージから、
映画『網走番外地』シリーズの舞台ともなっている。
さらに、終戦前後の時期までは、治安維持法違反などの政治犯
(主に、徳田球一や宮本顕治をはじめとする日本共産党の党員など)も収監されていたことがある。
1984年に現在の建物が建設された頃から環境の改善が進み、
比較的刑期の短い者の収容が増えている。
木造時代の施設は移築され、市内呼人の天都山麓で博物館網走監獄として公開されている。」
(by wikipedia)
実はここには以前も一度訪れたことがある。
もう2年前なのかな、真冬に知床へ行ったことがあって。
谷川さんとオホーツク海の流氷を見に行った。
その道中、吹雪の中をこの網走監獄に寄り道した。
夏の網走は清清しくて、もうコスモスが咲いていた。
それとはまるで対照的に存在しているのが博物館網走監獄だ。
当時の刑務所を忠実に再現したと思われる内装。
独房のなんとも寒々しい気配!
とても手の届かない高い位置に設けられた小さな窓から
差し込む光だけが頼りの空間。
トイレもドアなんかは無くてそのまんま剥き出しだ。
等間隔に並んだ鉛色の重厚な扉たち。
囚人達を収容し厳重に鍵をかけられた扉。
その扉と扉の間を通る通路の先には外につながる扉があって、
そこから光溢れる外の世界が見えた。
こういう場所を私は他にも知っている気がした。
じっと見ていて、福祉施設と似ているということに気がついた。
・・
私は学生時代から今まで、本当に色んな施設に出入りしてきた。
何年もかけてボランティアとして通った施設もあるし、
身内が入所していた施設、
実習として行った施設、仕事で訪れた施設なんかも入れるともう、
その一つ一つを覚えてはいられないくらいにたくさんある。
網走監獄はそんな福祉施設とどこか同じ気配がした。
そこに暮らす人やそこで働く人を批判しているわけではなく、
ただ自分の率直な思いとして、似ていると感じた。
・・
数年前、山奥の救護施設で何日か寝泊りをしたことがある。
そこでは昼間、みんながキックベースをしていた。
「一緒にやろう」と誘ってもらい、一緒にやった。
私の下手くそっぷりに笑う人、励ましてくれる人がいて
何度も根気よくコツを教えてくれる人がいた。
楽しくておかしくて大笑いをした。
帰る日の朝、名残惜しそうに私を見送ってくれた年配の女性がいた。
もう二十年以上もそこに入所しているという人。
何も言わなくてももう二度と会えないんだとお互いにわかっていて
やっぱり何も言えなかった。
手を握ってぎこちなく笑い車に乗り込んだ。
大きな鉄格子の扉が開いて、私を乗せた車は私の日常へと走り出し、
後部座席から後ろを振り向いてみたら
閉じかけた鉄格子の向こうで手を振るその人がいた。
その瞬間とてつもなく悲しくなってどうしようもなかった。
あの人が鉄格子から見送られることはないのだと思ったら
私は自分が生きていることの意味を問わずにはいられなかった。
今もはっきりと思いだせる光景。
網走監獄はそのときの施設とよく似ていた。
・・
たくさんの福祉施設に出入りし、たくさんの人たちと出会い、
その人たちから本当に色々なことを教わった。
でも、その人たちは私から会いに行かないと
いつまでも会えない人たちやったりする。
それもいきなり会いに行ってはダメで、
"福祉の資格を持ったちゃんとした人間"であることを
事前に申請して連絡しとかないといけなかったり、
"ボランティア"という肩書きのもと決められた活動をすることを
約束しなければいけなかったりする。
場合によってはエライ人の推薦状や依頼文が必要だったりもする。
どれだけ親しくなっても、
その中に暮らす人たちが私の部屋に遊びに来てくれることはまずない。
多くの場合、そういう関わりはダメだと禁止されているから。
連絡先を教えたりしてはいけないから。
私は誰かと親しくなろうとするときに、変に勘繰ったり深読みしたりするのが苦手だ。
なるべく人のいいところを見ていたいし信じたい。
そしてそういうところを見つけたいとも思っている。
ただそれだけなのに。
・・
はぁ・・・。
なんか落ち込んできた。
この辺にしときます。笑(今日の話長いなー苦笑)
旅の記録は続く。

並んだ扉

その先

コスモス風に揺れてた
その前に網走監獄の話をしたくなった。
網走監獄とは・・・
「かつては日本で一番脱獄が困難な刑務所だと言われ、(中略)、
また、施設の劣悪さと凶悪犯が多いというイメージから、
映画『網走番外地』シリーズの舞台ともなっている。
さらに、終戦前後の時期までは、治安維持法違反などの政治犯
(主に、徳田球一や宮本顕治をはじめとする日本共産党の党員など)も収監されていたことがある。
1984年に現在の建物が建設された頃から環境の改善が進み、
比較的刑期の短い者の収容が増えている。
木造時代の施設は移築され、市内呼人の天都山麓で博物館網走監獄として公開されている。」
(by wikipedia)
実はここには以前も一度訪れたことがある。
もう2年前なのかな、真冬に知床へ行ったことがあって。
谷川さんとオホーツク海の流氷を見に行った。
その道中、吹雪の中をこの網走監獄に寄り道した。
夏の網走は清清しくて、もうコスモスが咲いていた。
それとはまるで対照的に存在しているのが博物館網走監獄だ。
当時の刑務所を忠実に再現したと思われる内装。
独房のなんとも寒々しい気配!
とても手の届かない高い位置に設けられた小さな窓から
差し込む光だけが頼りの空間。
トイレもドアなんかは無くてそのまんま剥き出しだ。
等間隔に並んだ鉛色の重厚な扉たち。
囚人達を収容し厳重に鍵をかけられた扉。
その扉と扉の間を通る通路の先には外につながる扉があって、
そこから光溢れる外の世界が見えた。
こういう場所を私は他にも知っている気がした。
じっと見ていて、福祉施設と似ているということに気がついた。
・・
私は学生時代から今まで、本当に色んな施設に出入りしてきた。
何年もかけてボランティアとして通った施設もあるし、
身内が入所していた施設、
実習として行った施設、仕事で訪れた施設なんかも入れるともう、
その一つ一つを覚えてはいられないくらいにたくさんある。
網走監獄はそんな福祉施設とどこか同じ気配がした。
そこに暮らす人やそこで働く人を批判しているわけではなく、
ただ自分の率直な思いとして、似ていると感じた。
・・
数年前、山奥の救護施設で何日か寝泊りをしたことがある。
そこでは昼間、みんながキックベースをしていた。
「一緒にやろう」と誘ってもらい、一緒にやった。
私の下手くそっぷりに笑う人、励ましてくれる人がいて
何度も根気よくコツを教えてくれる人がいた。
楽しくておかしくて大笑いをした。
帰る日の朝、名残惜しそうに私を見送ってくれた年配の女性がいた。
もう二十年以上もそこに入所しているという人。
何も言わなくてももう二度と会えないんだとお互いにわかっていて
やっぱり何も言えなかった。
手を握ってぎこちなく笑い車に乗り込んだ。
大きな鉄格子の扉が開いて、私を乗せた車は私の日常へと走り出し、
後部座席から後ろを振り向いてみたら
閉じかけた鉄格子の向こうで手を振るその人がいた。
その瞬間とてつもなく悲しくなってどうしようもなかった。
あの人が鉄格子から見送られることはないのだと思ったら
私は自分が生きていることの意味を問わずにはいられなかった。
今もはっきりと思いだせる光景。
網走監獄はそのときの施設とよく似ていた。
・・
たくさんの福祉施設に出入りし、たくさんの人たちと出会い、
その人たちから本当に色々なことを教わった。
でも、その人たちは私から会いに行かないと
いつまでも会えない人たちやったりする。
それもいきなり会いに行ってはダメで、
"福祉の資格を持ったちゃんとした人間"であることを
事前に申請して連絡しとかないといけなかったり、
"ボランティア"という肩書きのもと決められた活動をすることを
約束しなければいけなかったりする。
場合によってはエライ人の推薦状や依頼文が必要だったりもする。
どれだけ親しくなっても、
その中に暮らす人たちが私の部屋に遊びに来てくれることはまずない。
多くの場合、そういう関わりはダメだと禁止されているから。
連絡先を教えたりしてはいけないから。
私は誰かと親しくなろうとするときに、変に勘繰ったり深読みしたりするのが苦手だ。
なるべく人のいいところを見ていたいし信じたい。
そしてそういうところを見つけたいとも思っている。
ただそれだけなのに。
・・
はぁ・・・。
なんか落ち込んできた。
この辺にしときます。笑(今日の話長いなー苦笑)
旅の記録は続く。
並んだ扉
その先
コスモス風に揺れてた
道東へ1
ひたすらRadioheadな今日この頃。
今はアルバム『AMNESIAC』のPyramid Songを聴きながら。
今回の旅は家族と行った。
うちの父が還暦を迎えるのと、妹がもうじき結婚するのと。
お祝いを兼ねて。
そしてこういう旅行はもうしばらく行けなくなるかも
しれないなということで。
行き先も何もかも私が決めた。
自由人を通り越して奔放・自己中なうちの家族。笑
みんなの意向を聞いてたら旅なんて到底実現不可能なので
私の独断ですべて決定した。
(これについては異論なし。)
行き先は道東。
知床半島と、摩周湖・阿寒湖・釧路湿原を巡る旅。
好奇心旺盛でじっとしてられない父と
とにかく美味しいものを食べて温泉に入りたい母と
主にこの二人が満足できる内容。
旅の注意事項は三つ。
1.忘れ物をしない。
2.怪我をしない。
3.ケンカをしない。
四泊五日の旅で特に3番は要注意やで!!と何度も
みんなで言い聞かせた。
お陰で途中、1番は父が、2番は母が、
それぞれサングラスを紛失、足首を捻挫という形でしでかしたけど、
3番のケンカだけは無かった。
それが何よりも良かった。
・・正直、ものすんごい気を使いました!!!
もー、めっちゃしんどかった!!
あはははははは!!
もちろん、それ以上に楽しかったんやけどね。
でも・・しばらく家族で外出はいいかも。笑
続く。

知床の湖
今はアルバム『AMNESIAC』のPyramid Songを聴きながら。
今回の旅は家族と行った。
うちの父が還暦を迎えるのと、妹がもうじき結婚するのと。
お祝いを兼ねて。
そしてこういう旅行はもうしばらく行けなくなるかも
しれないなということで。
行き先も何もかも私が決めた。
自由人を通り越して奔放・自己中なうちの家族。笑
みんなの意向を聞いてたら旅なんて到底実現不可能なので
私の独断ですべて決定した。
(これについては異論なし。)
行き先は道東。
知床半島と、摩周湖・阿寒湖・釧路湿原を巡る旅。
好奇心旺盛でじっとしてられない父と
とにかく美味しいものを食べて温泉に入りたい母と
主にこの二人が満足できる内容。
旅の注意事項は三つ。
1.忘れ物をしない。
2.怪我をしない。
3.ケンカをしない。
四泊五日の旅で特に3番は要注意やで!!と何度も
みんなで言い聞かせた。
お陰で途中、1番は父が、2番は母が、
それぞれサングラスを紛失、足首を捻挫という形でしでかしたけど、
3番のケンカだけは無かった。
それが何よりも良かった。
・・正直、ものすんごい気を使いました!!!
もー、めっちゃしんどかった!!
あはははははは!!
もちろん、それ以上に楽しかったんやけどね。
でも・・しばらく家族で外出はいいかも。笑
続く。
知床の湖
楽しいことへ
山梨、あと、静岡行ってきました。
山梨は富士急ハイランドであったフジファブリック主催の夜の野外フェス。
今は亡き志村くんを偲んで彼の歌を色んなアーティストが歌った。
実はこのフェス、その存在を直前まですっかり忘れてて。w
夜の野外フェスに行きたいなぁって思って
うんと前にチケットを取って、届いてから思い出して焦った。
で、もう行かなくていっかって半ば思ってたんやけど、
ルームメイトの谷川さんがフェス以外の楽しみを色々計画してくれて。
(思うに、谷川さんは旅の達人やと思う)
お陰でとっても楽しい小旅行になった。
新幹線(ひかり・自由席)で三島まで行って、
そこから富士急に向けて更にバスで2時間。
フェス後は再びバス(それも普通の路線バス!)で2時間揺られて
三島へ行き、ホテルで宿泊。(なんと1泊3,000円、朝食付き。しかも綺麗。)
翌朝、あちこちで清流が流れる三島の街を散策してから
シャトルバスに乗ってクレマチスの丘へ。
クレマチスの丘にはもちろんクレマチスが咲くお庭があるわけなんやけど、
お花だけじゃなくて、直島と同じようにアート空間にもなってて。
ヴァンジという彫刻家の美術館や、画家のビュフェの美術館があって観て回った。
これが・・・
なんでしょう、いずれもなんというか内省的(?)な雰囲気のアーティストで。
空はこんなに青いのに、クレマチスは美しく、緑はキラキラしているのに、
この作品群の救いようのない暗さったらもう!みたいな。w
あくまでド素人な私の主観ですが・・・。
おもしろかったんやけどね☆
何より、空が本当に青くて青くて。
何枚も写真を撮ってはまた撮って。
名残惜しかった。
空への執着。
大阪にもあるはずやのにおかしいな。
・・
今、目の前に、アマゾンの中古で買った、
カート・ヴォネガットの『国のない男』が置かれてある。
この本の帯に書いてあることば。
「唯一わたしがやりたかったのは、
人々に笑いという救いを与えることだ。
ユーモアには人の心を楽にする力がある。
アスピリンのようなものだ。
百年後、人類がまだ笑っていたら、
わたしはきっとうれしいと思う。」
「腹立たしいことがあまりに多くて、笑いでは
対処しきれなくなってしまった」なんてことも言っちゃいながら、
死ぬまでおもしろい冗談を考えてはみんな笑おうよって言ったヴォネガット、好きです。
最近は楽しい感じがいい。
フェスも、ポリシックスのハヤシさんがむやみやたらとハイテンションで
それがめっちゃおもしろくて好きやった。
志村くんもどっかで見ながら笑ってたんじゃないかな。
ガラスの壁に張り付く男の彫像。
正面からやとあまりに切なかったから僅かに空いてた横の隙間から撮ってみた。

丘を歩く谷川さん。

二人の足@三島駅の待合室(帰り)

山梨は富士急ハイランドであったフジファブリック主催の夜の野外フェス。
今は亡き志村くんを偲んで彼の歌を色んなアーティストが歌った。
実はこのフェス、その存在を直前まですっかり忘れてて。w
夜の野外フェスに行きたいなぁって思って
うんと前にチケットを取って、届いてから思い出して焦った。
で、もう行かなくていっかって半ば思ってたんやけど、
ルームメイトの谷川さんがフェス以外の楽しみを色々計画してくれて。
(思うに、谷川さんは旅の達人やと思う)
お陰でとっても楽しい小旅行になった。
新幹線(ひかり・自由席)で三島まで行って、
そこから富士急に向けて更にバスで2時間。
フェス後は再びバス(それも普通の路線バス!)で2時間揺られて
三島へ行き、ホテルで宿泊。(なんと1泊3,000円、朝食付き。しかも綺麗。)
翌朝、あちこちで清流が流れる三島の街を散策してから
シャトルバスに乗ってクレマチスの丘へ。
クレマチスの丘にはもちろんクレマチスが咲くお庭があるわけなんやけど、
お花だけじゃなくて、直島と同じようにアート空間にもなってて。
ヴァンジという彫刻家の美術館や、画家のビュフェの美術館があって観て回った。
これが・・・
なんでしょう、いずれもなんというか内省的(?)な雰囲気のアーティストで。
空はこんなに青いのに、クレマチスは美しく、緑はキラキラしているのに、
この作品群の救いようのない暗さったらもう!みたいな。w
あくまでド素人な私の主観ですが・・・。
おもしろかったんやけどね☆
何より、空が本当に青くて青くて。
何枚も写真を撮ってはまた撮って。
名残惜しかった。
空への執着。
大阪にもあるはずやのにおかしいな。
・・
今、目の前に、アマゾンの中古で買った、
カート・ヴォネガットの『国のない男』が置かれてある。
この本の帯に書いてあることば。
「唯一わたしがやりたかったのは、
人々に笑いという救いを与えることだ。
ユーモアには人の心を楽にする力がある。
アスピリンのようなものだ。
百年後、人類がまだ笑っていたら、
わたしはきっとうれしいと思う。」
「腹立たしいことがあまりに多くて、笑いでは
対処しきれなくなってしまった」なんてことも言っちゃいながら、
死ぬまでおもしろい冗談を考えてはみんな笑おうよって言ったヴォネガット、好きです。
最近は楽しい感じがいい。
フェスも、ポリシックスのハヤシさんがむやみやたらとハイテンションで
それがめっちゃおもしろくて好きやった。
志村くんもどっかで見ながら笑ってたんじゃないかな。
ガラスの壁に張り付く男の彫像。
正面からやとあまりに切なかったから僅かに空いてた横の隙間から撮ってみた。
丘を歩く谷川さん。
二人の足@三島駅の待合室(帰り)
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女性