手をつなぐ
日々のこと、好きなもののことなどツラツラ書きます。
道東へ3 網走監獄
北方民族の続きを書こうと思ったけど、
その前に網走監獄の話をしたくなった。
網走監獄とは・・・
「かつては日本で一番脱獄が困難な刑務所だと言われ、(中略)、
また、施設の劣悪さと凶悪犯が多いというイメージから、
映画『網走番外地』シリーズの舞台ともなっている。
さらに、終戦前後の時期までは、治安維持法違反などの政治犯
(主に、徳田球一や宮本顕治をはじめとする日本共産党の党員など)も収監されていたことがある。
1984年に現在の建物が建設された頃から環境の改善が進み、
比較的刑期の短い者の収容が増えている。
木造時代の施設は移築され、市内呼人の天都山麓で博物館網走監獄として公開されている。」
(by wikipedia)
実はここには以前も一度訪れたことがある。
もう2年前なのかな、真冬に知床へ行ったことがあって。
谷川さんとオホーツク海の流氷を見に行った。
その道中、吹雪の中をこの網走監獄に寄り道した。
夏の網走は清清しくて、もうコスモスが咲いていた。
それとはまるで対照的に存在しているのが博物館網走監獄だ。
当時の刑務所を忠実に再現したと思われる内装。
独房のなんとも寒々しい気配!
とても手の届かない高い位置に設けられた小さな窓から
差し込む光だけが頼りの空間。
トイレもドアなんかは無くてそのまんま剥き出しだ。
等間隔に並んだ鉛色の重厚な扉たち。
囚人達を収容し厳重に鍵をかけられた扉。
その扉と扉の間を通る通路の先には外につながる扉があって、
そこから光溢れる外の世界が見えた。
こういう場所を私は他にも知っている気がした。
じっと見ていて、福祉施設と似ているということに気がついた。
・・
私は学生時代から今まで、本当に色んな施設に出入りしてきた。
何年もかけてボランティアとして通った施設もあるし、
身内が入所していた施設、
実習として行った施設、仕事で訪れた施設なんかも入れるともう、
その一つ一つを覚えてはいられないくらいにたくさんある。
網走監獄はそんな福祉施設とどこか同じ気配がした。
そこに暮らす人やそこで働く人を批判しているわけではなく、
ただ自分の率直な思いとして、似ていると感じた。
・・
数年前、山奥の救護施設で何日か寝泊りをしたことがある。
そこでは昼間、みんながキックベースをしていた。
「一緒にやろう」と誘ってもらい、一緒にやった。
私の下手くそっぷりに笑う人、励ましてくれる人がいて
何度も根気よくコツを教えてくれる人がいた。
楽しくておかしくて大笑いをした。
帰る日の朝、名残惜しそうに私を見送ってくれた年配の女性がいた。
もう二十年以上もそこに入所しているという人。
何も言わなくてももう二度と会えないんだとお互いにわかっていて
やっぱり何も言えなかった。
手を握ってぎこちなく笑い車に乗り込んだ。
大きな鉄格子の扉が開いて、私を乗せた車は私の日常へと走り出し、
後部座席から後ろを振り向いてみたら
閉じかけた鉄格子の向こうで手を振るその人がいた。
その瞬間とてつもなく悲しくなってどうしようもなかった。
あの人が鉄格子から見送られることはないのだと思ったら
私は自分が生きていることの意味を問わずにはいられなかった。
今もはっきりと思いだせる光景。
網走監獄はそのときの施設とよく似ていた。
・・
たくさんの福祉施設に出入りし、たくさんの人たちと出会い、
その人たちから本当に色々なことを教わった。
でも、その人たちは私から会いに行かないと
いつまでも会えない人たちやったりする。
それもいきなり会いに行ってはダメで、
"福祉の資格を持ったちゃんとした人間"であることを
事前に申請して連絡しとかないといけなかったり、
"ボランティア"という肩書きのもと決められた活動をすることを
約束しなければいけなかったりする。
場合によってはエライ人の推薦状や依頼文が必要だったりもする。
どれだけ親しくなっても、
その中に暮らす人たちが私の部屋に遊びに来てくれることはまずない。
多くの場合、そういう関わりはダメだと禁止されているから。
連絡先を教えたりしてはいけないから。
私は誰かと親しくなろうとするときに、変に勘繰ったり深読みしたりするのが苦手だ。
なるべく人のいいところを見ていたいし信じたい。
そしてそういうところを見つけたいとも思っている。
ただそれだけなのに。
・・
はぁ・・・。
なんか落ち込んできた。
この辺にしときます。笑(今日の話長いなー苦笑)
旅の記録は続く。
並んだ扉
その先
コスモス風に揺れてた
その前に網走監獄の話をしたくなった。
網走監獄とは・・・
「かつては日本で一番脱獄が困難な刑務所だと言われ、(中略)、
また、施設の劣悪さと凶悪犯が多いというイメージから、
映画『網走番外地』シリーズの舞台ともなっている。
さらに、終戦前後の時期までは、治安維持法違反などの政治犯
(主に、徳田球一や宮本顕治をはじめとする日本共産党の党員など)も収監されていたことがある。
1984年に現在の建物が建設された頃から環境の改善が進み、
比較的刑期の短い者の収容が増えている。
木造時代の施設は移築され、市内呼人の天都山麓で博物館網走監獄として公開されている。」
(by wikipedia)
実はここには以前も一度訪れたことがある。
もう2年前なのかな、真冬に知床へ行ったことがあって。
谷川さんとオホーツク海の流氷を見に行った。
その道中、吹雪の中をこの網走監獄に寄り道した。
夏の網走は清清しくて、もうコスモスが咲いていた。
それとはまるで対照的に存在しているのが博物館網走監獄だ。
当時の刑務所を忠実に再現したと思われる内装。
独房のなんとも寒々しい気配!
とても手の届かない高い位置に設けられた小さな窓から
差し込む光だけが頼りの空間。
トイレもドアなんかは無くてそのまんま剥き出しだ。
等間隔に並んだ鉛色の重厚な扉たち。
囚人達を収容し厳重に鍵をかけられた扉。
その扉と扉の間を通る通路の先には外につながる扉があって、
そこから光溢れる外の世界が見えた。
こういう場所を私は他にも知っている気がした。
じっと見ていて、福祉施設と似ているということに気がついた。
・・
私は学生時代から今まで、本当に色んな施設に出入りしてきた。
何年もかけてボランティアとして通った施設もあるし、
身内が入所していた施設、
実習として行った施設、仕事で訪れた施設なんかも入れるともう、
その一つ一つを覚えてはいられないくらいにたくさんある。
網走監獄はそんな福祉施設とどこか同じ気配がした。
そこに暮らす人やそこで働く人を批判しているわけではなく、
ただ自分の率直な思いとして、似ていると感じた。
・・
数年前、山奥の救護施設で何日か寝泊りをしたことがある。
そこでは昼間、みんながキックベースをしていた。
「一緒にやろう」と誘ってもらい、一緒にやった。
私の下手くそっぷりに笑う人、励ましてくれる人がいて
何度も根気よくコツを教えてくれる人がいた。
楽しくておかしくて大笑いをした。
帰る日の朝、名残惜しそうに私を見送ってくれた年配の女性がいた。
もう二十年以上もそこに入所しているという人。
何も言わなくてももう二度と会えないんだとお互いにわかっていて
やっぱり何も言えなかった。
手を握ってぎこちなく笑い車に乗り込んだ。
大きな鉄格子の扉が開いて、私を乗せた車は私の日常へと走り出し、
後部座席から後ろを振り向いてみたら
閉じかけた鉄格子の向こうで手を振るその人がいた。
その瞬間とてつもなく悲しくなってどうしようもなかった。
あの人が鉄格子から見送られることはないのだと思ったら
私は自分が生きていることの意味を問わずにはいられなかった。
今もはっきりと思いだせる光景。
網走監獄はそのときの施設とよく似ていた。
・・
たくさんの福祉施設に出入りし、たくさんの人たちと出会い、
その人たちから本当に色々なことを教わった。
でも、その人たちは私から会いに行かないと
いつまでも会えない人たちやったりする。
それもいきなり会いに行ってはダメで、
"福祉の資格を持ったちゃんとした人間"であることを
事前に申請して連絡しとかないといけなかったり、
"ボランティア"という肩書きのもと決められた活動をすることを
約束しなければいけなかったりする。
場合によってはエライ人の推薦状や依頼文が必要だったりもする。
どれだけ親しくなっても、
その中に暮らす人たちが私の部屋に遊びに来てくれることはまずない。
多くの場合、そういう関わりはダメだと禁止されているから。
連絡先を教えたりしてはいけないから。
私は誰かと親しくなろうとするときに、変に勘繰ったり深読みしたりするのが苦手だ。
なるべく人のいいところを見ていたいし信じたい。
そしてそういうところを見つけたいとも思っている。
ただそれだけなのに。
・・
はぁ・・・。
なんか落ち込んできた。
この辺にしときます。笑(今日の話長いなー苦笑)
旅の記録は続く。
並んだ扉
その先
コスモス風に揺れてた
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