手をつなぐ
日々のこと、好きなもののことなどツラツラ書きます。
カテゴリー「日々のこと」の記事一覧
- 2020.03.05
ちょっとした驚きと変わらないもの
- 2020.02.23
なんてことない
- 2020.02.19
噛みしめて
- 2019.08.21
希望とは
ちょっとした驚きと変わらないもの
このブログ、書き出したのがかれこれ10年くらい前のことらしい。
今、昔書いたものを少し読んでみていたら静かな驚きが何度も。
こんなこと考えてたのかぁと。
自分が書いたはずなのに自分のことばにびっくりする。
少し、ここに転記してみようかなと。
2013年の夏、資格の学校に通ってた頃に記したもの。タイトルは"耳をすませば"。
「学校帰り、お京阪に飛び乗って、三十三間堂へ行った。
私の大好きな場所。
何かに行き詰ったとき、答えを探しに出かける。
細長いお堂には、千体の観音像が所せましと並び、
その前を風神、雷神などの仏像たちがずらりと並んでいる。
見事というほかない造形美。
壮観。
中央には、大きな観音様が座っている。
その前でじっと手を合わせて祈った。
一周して、外のベンチでじっと考えていた。
とりとめのない、思考の旅をしていた。
時間はあっという間に過ぎ、閉堂まであと30分となったとき、もう一度、お堂を参拝してみることにした。
受付が終了した後だけあって、さっきまでの観光客のにぎわいが嘘のように
お堂は静まり返っていた。
歩みを進めて、自分の辿ってきた右側を見ると、誰もいない。
初めて見る光景。
静かな、とても静かな。
もう何度も来たけれど、自分が一番最後なのはこれが初めてやった。
幾体もの観音像と目が合い、そのたびに全身で声を感じ取る。
何も聞こえない。でも、聞こえる。
不思議な安堵感に、ホッとする。
中央の観音様の前に立ったとき、何かとても大切なことに気付いたような気がして
ハッとした。
その感覚を確かめようと反芻するけれど、まるでその先は自分で考えなさいと言われているみたいに
力が抜けていく。
確かなものなんて何もないのだとでもいわれているような・・・。
まるであらゆる可能性を肯定されたようで、気持ちが満ちていくのがわかった。
観音様はニッコリ微笑んでいるみたいに見えた。
・・
朝陽にキラキラ光る海を想像してみる。
夜の琵琶湖の真っ黒な湖面を想像してみる。
この二つは違うようでとても似ているな、と思う。
ずっと、こんなふうに自分の世界で遊んでいた。
小さいころ、私は毎日全力でクレヨン王国の世界を想像して、
すっかりクレヨンの国の住人だった。
いつもあらぬことを一人思い描いては嬉しくなっていた。
ときどき、この感覚が今も私を救ってくれているのだと感じる。
子どものまま、大きくならない自分がいる。
足りないところばかりやけど、些細なことに喜び、悲しむ感性はそのままでありたい。」
…
"何もないところに、
木を一本、わたしは植えた。
それが世界のはじまりだった。"
グスタフ・クリムトの絵と共に流れる言葉たち。
何もないところに植えた一本の木はたった一本で
そんな儚いものが、どうやって世界をつくりだせたんやろう。
でももしそれで世界がはじまったのだとしたら、
それは希望以外の何物でもないな。
誰かと出会い、言葉を交わす。
思いを伝える。
そこから生まれる世界がある。
・・
さっき、ガラスのコップに水滴がついていて、
そのあとそこに置いた紙が濡れた。
ほんの一滴のしずくが紙を濡らす。
そして、文字をにじませる。
存在している限り、何かに影響している。
たとえば私が今涙を流したら
同じように紙を濡らし
文字をにじませるやろう。
もしももっとたくさんの涙を流したのなら
燃え盛る炎を少しばかり鎮めるのかもしれない。
たとえほんのわずかでも。
無駄なものなんて、きっと何もない。
"森の木がおおきくなると、
おおきくなったのは、
沈黙だった。
沈黙は、
森を充たす
空気のことばだ。"
・・
"次の日、きみがやってきて、
そばに、もう一本の木を植えた。
木が二本。木は林になった。
三日目、わたしたちは、
さらに、もう一本の木を植えた。
木が三本。林は森になった。"
沈黙は
世界のはじまりは 」
…
読んでみて、なんだかもう今は書けない感じのことばやなぁと。
一人きりで過ごす時間というものがほぼ無いからかな。
感受性が大きく変わったわけでは無い気がするけど、、、いや、感じ方も少し変わったかな?
今日のご飯はキノコカレー。
無水鍋でお肉と玉ねぎをしっかり炒めて、しめじ、えのき、しいたけをどっさり入れて蓋をしたら、ものの数分でお鍋の中が野菜の水分で満たされる。
カレーは冷蔵庫にある材料で手軽に作れるところがいい。
ミンチ肉にキャベツ、缶詰のひよこ豆をフライパンで炒めてドライカレーにしたり、サバ缶を使ってみたり。パプリカやオクラ、インゲン、トマトと夏野菜をどさっと使ったチキンカレーは夏の定番。冬は白菜なんかも使ってみたら子どもの好きな優しい味のカレーになる。
味付けはカレールーを使うこともあるし、カレー粉にコリアンダー、クミンなどのスパイスを少しずつ混ぜこんで作る日もある。
隠し味にしょうゆや味噌を足してみても美味しい。
今は生活の中のちょっとしたことが楽しかったりおもしろかったり、たまに悲しかったりギョッとしたり…やっぱりおもしろかったり。
ちなみに三十三間堂は変わらず大好きで、これはたぶんこれからも変わらないと思う。
今、昔書いたものを少し読んでみていたら静かな驚きが何度も。
こんなこと考えてたのかぁと。
自分が書いたはずなのに自分のことばにびっくりする。
少し、ここに転記してみようかなと。
2013年の夏、資格の学校に通ってた頃に記したもの。タイトルは"耳をすませば"。
「学校帰り、お京阪に飛び乗って、三十三間堂へ行った。
私の大好きな場所。
何かに行き詰ったとき、答えを探しに出かける。
細長いお堂には、千体の観音像が所せましと並び、
その前を風神、雷神などの仏像たちがずらりと並んでいる。
見事というほかない造形美。
壮観。
中央には、大きな観音様が座っている。
その前でじっと手を合わせて祈った。
一周して、外のベンチでじっと考えていた。
とりとめのない、思考の旅をしていた。
時間はあっという間に過ぎ、閉堂まであと30分となったとき、もう一度、お堂を参拝してみることにした。
受付が終了した後だけあって、さっきまでの観光客のにぎわいが嘘のように
お堂は静まり返っていた。
歩みを進めて、自分の辿ってきた右側を見ると、誰もいない。
初めて見る光景。
静かな、とても静かな。
もう何度も来たけれど、自分が一番最後なのはこれが初めてやった。
幾体もの観音像と目が合い、そのたびに全身で声を感じ取る。
何も聞こえない。でも、聞こえる。
不思議な安堵感に、ホッとする。
中央の観音様の前に立ったとき、何かとても大切なことに気付いたような気がして
ハッとした。
その感覚を確かめようと反芻するけれど、まるでその先は自分で考えなさいと言われているみたいに
力が抜けていく。
確かなものなんて何もないのだとでもいわれているような・・・。
まるであらゆる可能性を肯定されたようで、気持ちが満ちていくのがわかった。
観音様はニッコリ微笑んでいるみたいに見えた。
・・
朝陽にキラキラ光る海を想像してみる。
夜の琵琶湖の真っ黒な湖面を想像してみる。
この二つは違うようでとても似ているな、と思う。
ずっと、こんなふうに自分の世界で遊んでいた。
小さいころ、私は毎日全力でクレヨン王国の世界を想像して、
すっかりクレヨンの国の住人だった。
いつもあらぬことを一人思い描いては嬉しくなっていた。
ときどき、この感覚が今も私を救ってくれているのだと感じる。
子どものまま、大きくならない自分がいる。
足りないところばかりやけど、些細なことに喜び、悲しむ感性はそのままでありたい。」
…
2013年のまた別の日に書いたもので、"沈黙は"というタイトルのもの、以下。
「長田弘という詩人の詩で『人生は森のなかの一日』というのがあって。
こうやって始まる。「長田弘という詩人の詩で『人生は森のなかの一日』というのがあって。
"何もないところに、
木を一本、わたしは植えた。
それが世界のはじまりだった。"
グスタフ・クリムトの絵と共に流れる言葉たち。
何もないところに植えた一本の木はたった一本で
そんな儚いものが、どうやって世界をつくりだせたんやろう。
でももしそれで世界がはじまったのだとしたら、
それは希望以外の何物でもないな。
誰かと出会い、言葉を交わす。
思いを伝える。
そこから生まれる世界がある。
・・
さっき、ガラスのコップに水滴がついていて、
そのあとそこに置いた紙が濡れた。
ほんの一滴のしずくが紙を濡らす。
そして、文字をにじませる。
存在している限り、何かに影響している。
たとえば私が今涙を流したら
同じように紙を濡らし
文字をにじませるやろう。
もしももっとたくさんの涙を流したのなら
燃え盛る炎を少しばかり鎮めるのかもしれない。
たとえほんのわずかでも。
無駄なものなんて、きっと何もない。
"森の木がおおきくなると、
おおきくなったのは、
沈黙だった。
沈黙は、
森を充たす
空気のことばだ。"
・・
"次の日、きみがやってきて、
そばに、もう一本の木を植えた。
木が二本。木は林になった。
三日目、わたしたちは、
さらに、もう一本の木を植えた。
木が三本。林は森になった。"
沈黙は
世界のはじまりは 」
…
読んでみて、なんだかもう今は書けない感じのことばやなぁと。
一人きりで過ごす時間というものがほぼ無いからかな。
感受性が大きく変わったわけでは無い気がするけど、、、いや、感じ方も少し変わったかな?
今日のご飯はキノコカレー。
無水鍋でお肉と玉ねぎをしっかり炒めて、しめじ、えのき、しいたけをどっさり入れて蓋をしたら、ものの数分でお鍋の中が野菜の水分で満たされる。
カレーは冷蔵庫にある材料で手軽に作れるところがいい。
ミンチ肉にキャベツ、缶詰のひよこ豆をフライパンで炒めてドライカレーにしたり、サバ缶を使ってみたり。パプリカやオクラ、インゲン、トマトと夏野菜をどさっと使ったチキンカレーは夏の定番。冬は白菜なんかも使ってみたら子どもの好きな優しい味のカレーになる。
味付けはカレールーを使うこともあるし、カレー粉にコリアンダー、クミンなどのスパイスを少しずつ混ぜこんで作る日もある。
隠し味にしょうゆや味噌を足してみても美味しい。
今は生活の中のちょっとしたことが楽しかったりおもしろかったり、たまに悲しかったりギョッとしたり…やっぱりおもしろかったり。
ちなみに三十三間堂は変わらず大好きで、これはたぶんこれからも変わらないと思う。
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なんてことない
本当になんてことないような話。
…
気づけば子どもが二人いる。
二人とも、私を知る人には私似だと言われる。
二人目さんはあんよが上手になってきたんやけど、髪の毛は相変わらず薄くてまだまだ赤ちゃん味が抜けない。
目が丸目で小動物っぽい。
ポメラニアンに似ているなぁと、生まれた時からずっと思っている。
前に夫に、「この子、なんか天津飯にも似てない?ドラゴンボールの」とつぶやいたら、「それ天津飯ちゃう、餃子」と即座に訂正された
そう、餃子。チャオズね。知ってますよ。
鶴仙人の弟子のね。(←夫から教えてもらった)
…まぁ、にわか知識はこんなもんです。
配合で言うと餃子70%ポメラニアン30%ってとこかな。
似てると思う。
この餃子な二人目さん、天性の(?)甘え上手で感心してしまう。
ニコニコ笑いながら抱きしめてもらいにやってくるし、イタズラして怒られそうになったら満面の笑顔で許してちょーだいと言わんばかり。
結果、怒る気になれなくてホント甘甘で育ててしまっている。
上の子は最近誰からも私に似ていると言われる。
たしかに似てるかもと思う。
このところ難しい質問が増えてきた。
「ねえ、優しいってなあに?」
うーん、、誰かが失敗して悲しんでいたら大丈夫って言ってあげたり、ごめんねって言われたら許してあげたりすることだよ、と答えた。
答えながら、この答えは正しいのか…?と自問しつつ。
優しいって何かな?
…
楽器を今も習っていて、今、「夢のあとに」という曲を弾いている。
これはもともと歌曲で、
夢の中で美しい人と出会って恋に落ち、夢が覚めてもなお忘れられないという歌。
とても綺麗で悲しい曲。
大好き
…
いろんな人の演奏があるけど、この少年の演奏いいな。
夢のあとに
https://youtu.be/WqY3yyckcvI
…
気づけば子どもが二人いる。
二人とも、私を知る人には私似だと言われる。
二人目さんはあんよが上手になってきたんやけど、髪の毛は相変わらず薄くてまだまだ赤ちゃん味が抜けない。
目が丸目で小動物っぽい。
ポメラニアンに似ているなぁと、生まれた時からずっと思っている。
前に夫に、「この子、なんか天津飯にも似てない?ドラゴンボールの」とつぶやいたら、「それ天津飯ちゃう、餃子」と即座に訂正された
そう、餃子。チャオズね。知ってますよ。
鶴仙人の弟子のね。(←夫から教えてもらった)
…まぁ、にわか知識はこんなもんです。
配合で言うと餃子70%ポメラニアン30%ってとこかな。
似てると思う。
この餃子な二人目さん、天性の(?)甘え上手で感心してしまう。
ニコニコ笑いながら抱きしめてもらいにやってくるし、イタズラして怒られそうになったら満面の笑顔で許してちょーだいと言わんばかり。
結果、怒る気になれなくてホント甘甘で育ててしまっている。
上の子は最近誰からも私に似ていると言われる。
たしかに似てるかもと思う。
このところ難しい質問が増えてきた。
「ねえ、優しいってなあに?」
うーん、、誰かが失敗して悲しんでいたら大丈夫って言ってあげたり、ごめんねって言われたら許してあげたりすることだよ、と答えた。
答えながら、この答えは正しいのか…?と自問しつつ。
優しいって何かな?
…
楽器を今も習っていて、今、「夢のあとに」という曲を弾いている。
これはもともと歌曲で、
夢の中で美しい人と出会って恋に落ち、夢が覚めてもなお忘れられないという歌。
とても綺麗で悲しい曲。
大好き
…
いろんな人の演奏があるけど、この少年の演奏いいな。
夢のあとに
https://youtu.be/WqY3yyckcvI
なんてことない話、おわり。
噛みしめて
このところ実は…書いてアップロードしたものの思い直して消してしまった記事がいくつかあった。
それらとは違う話を。
…
いつも不思議やなぁと思うことの一つに、親しい人たちからの連絡が同じ時期に重なるというのがあって。
たとえば、Aさんが遊びに来た日の翌日にBさんが遊びに来て、その次の日にCさん、Dさんから連絡が来るみたいな。
いろんな人が私を思い出してくれるタイミングが重なるというのがこれまでもよくあって、そのたびに不思議な気持ちになっていた。
何かあるのかなぁ。引き合う見えない力?
今、よく家に遊びに来てくれる友人が何人かいて、
当然ながら私はその人たちのことがとても好き。
私は実は真面目な人が好きで、と言っても、堅いという意味の真面目さではなく、真摯な、というか。
素朴でまっすぐな人たち。
今仲良くしてくれてる人たちはそんな共通点がある気がする。
自分が生き方上手なタイプではないから、そういう人に癒されるものを感じるのかも。
歳を重ねてみて、良い意味でももしかすると悪い意味でもあまり人に期待しなくなった気がする。
昔は人に対してこうあって欲しいという思いが強くて、勝手な理想を投影してしまったり、思い込みから一人で傷ついたりすることがよくあった気がする。
今もそういうのが完全に無いというわけではないけれど、諦めることが悪いとも思わなくなった。
だってその人のことは変えられないから。
変えられるのは自分自身のことだけ。
…
そうそう、変わったことといえば、この数年でたぶん料理のレパートリーが相当に増えた。
単に料理が楽しいからなのだけど。
味噌はもう何年も自分で仕込んでいるし、沢庵やキムチも自分で作ったものを食べている。
家で食べるオヤツもよく作る。
知ってる人も多いと思うけどビスコッティというイタリアのお菓子があって、これはもう何回作ったかしれない。
とても簡単なのだ。
神経質に量をきちっと測らなくても多少の誤差があっても美味しくできるお菓子。
同じ理由でドーナツやプリンもよく作る。
今日はアジフライとミンチカツにした。
魚のフライは塩をふってしばらくしたら水気を拭いて衣をつけて揚げるだけなのですぐできる。
それとお味噌汁とポテトサラダ、キャベツの千切り。
今の時期ならおでんをよく作る。
一つ一つの材料の下味付けが多少面倒ではあるけれど、その工程が楽しくもあって、何より完成したときの達成感ね。
次の日も美味しく食べられるし、全部食べ切って残った出し汁で親子丼を作るとこれがまたとても美味しい。
そういえば前の職場の後輩が近くに寄ったからとか言っていきなり昼ごはんを食べにやってきたことがあったな。
慌ててきんぴらごぼうと卵焼きを作ってグリルでししゃもを数匹焼き、豆腐と長ネギのお味噌汁を作って出した。
あるもので作った即席料理、全然おもてなしでもなんでもなかったけど喜ばれた。
こういうご飯が食べたかったんです!とか言って。
突然のことにびっくりしたけど、喜んでもらえたことが嬉しかった。
…
本当に気まぐれな記録。
雑記とはこのことやなぁ。
ただなんてことない日々を少しでも慈しんで、噛みしめて生きたいなと思っている。
大それたことは何もできないけれど。
美味しい料理が一つできたらそれだけでも素敵な一日じゃないかぁ!と、言い聞かせてみている。
それらとは違う話を。
…
いつも不思議やなぁと思うことの一つに、親しい人たちからの連絡が同じ時期に重なるというのがあって。
たとえば、Aさんが遊びに来た日の翌日にBさんが遊びに来て、その次の日にCさん、Dさんから連絡が来るみたいな。
いろんな人が私を思い出してくれるタイミングが重なるというのがこれまでもよくあって、そのたびに不思議な気持ちになっていた。
何かあるのかなぁ。引き合う見えない力?
今、よく家に遊びに来てくれる友人が何人かいて、
当然ながら私はその人たちのことがとても好き。
私は実は真面目な人が好きで、と言っても、堅いという意味の真面目さではなく、真摯な、というか。
素朴でまっすぐな人たち。
今仲良くしてくれてる人たちはそんな共通点がある気がする。
自分が生き方上手なタイプではないから、そういう人に癒されるものを感じるのかも。
歳を重ねてみて、良い意味でももしかすると悪い意味でもあまり人に期待しなくなった気がする。
昔は人に対してこうあって欲しいという思いが強くて、勝手な理想を投影してしまったり、思い込みから一人で傷ついたりすることがよくあった気がする。
今もそういうのが完全に無いというわけではないけれど、諦めることが悪いとも思わなくなった。
だってその人のことは変えられないから。
変えられるのは自分自身のことだけ。
…
そうそう、変わったことといえば、この数年でたぶん料理のレパートリーが相当に増えた。
単に料理が楽しいからなのだけど。
味噌はもう何年も自分で仕込んでいるし、沢庵やキムチも自分で作ったものを食べている。
家で食べるオヤツもよく作る。
知ってる人も多いと思うけどビスコッティというイタリアのお菓子があって、これはもう何回作ったかしれない。
とても簡単なのだ。
神経質に量をきちっと測らなくても多少の誤差があっても美味しくできるお菓子。
同じ理由でドーナツやプリンもよく作る。
今日はアジフライとミンチカツにした。
魚のフライは塩をふってしばらくしたら水気を拭いて衣をつけて揚げるだけなのですぐできる。
それとお味噌汁とポテトサラダ、キャベツの千切り。
今の時期ならおでんをよく作る。
一つ一つの材料の下味付けが多少面倒ではあるけれど、その工程が楽しくもあって、何より完成したときの達成感ね。
次の日も美味しく食べられるし、全部食べ切って残った出し汁で親子丼を作るとこれがまたとても美味しい。
そういえば前の職場の後輩が近くに寄ったからとか言っていきなり昼ごはんを食べにやってきたことがあったな。
慌ててきんぴらごぼうと卵焼きを作ってグリルでししゃもを数匹焼き、豆腐と長ネギのお味噌汁を作って出した。
あるもので作った即席料理、全然おもてなしでもなんでもなかったけど喜ばれた。
こういうご飯が食べたかったんです!とか言って。
突然のことにびっくりしたけど、喜んでもらえたことが嬉しかった。
…
本当に気まぐれな記録。
雑記とはこのことやなぁ。
ただなんてことない日々を少しでも慈しんで、噛みしめて生きたいなと思っている。
大それたことは何もできないけれど。
美味しい料理が一つできたらそれだけでも素敵な一日じゃないかぁ!と、言い聞かせてみている。
希望とは
日記のような、日記ではないような。
自分の中の執着心の無さについて。
何にも、どこにも、本当に執着心というものが乏しい。
いつ手放してもいいものばかり。
なんでこんなかなーとおもう反面、こんなやから気軽に何でも始められるのかな、とも思う。
その時、その時に自分のまわりにあるものを大事に、大切にしようと思う。
おろそかになっていた人との連絡をきちんとして、働く準備も始めよう。
また新しい出会いがあって、学びがあって。
子どもたちはかわいくて、そんな今が尊いけれど。
でも、そろそろ未来のことも。
明日どうなるかもわからないけれど、けど、少し先の未来を楽しく想像してみよう。
そんな努力もまた尊いはず。
・・・
↑という文を自分の手帳につらつら書いていて、なんとなくここにも転記。
ドラッガーという人いわく、とても限られた人生において自らの苦手とすることを人並に引き上げるための努力をするよりも、自分の得意なことだけひたすら集中して取り組むことのほうがはるかに有益で成功への道だとかそんなことを言ったらしい。
全然ここには書かなくなってしまったけれど、某SNSではたまにごく短い文を写真とともに発信していて。
本当に短くて簡単なさらっとした内容。
日常のたわいもない一場面、そのときのちょっとした思いなど。
それを見た人から、実は更新楽しみにしてるだとか、もっと何か書いたほうがいいとまで言ってもらえることがちらほらあり。
どうなんやろう。
私は書いたほうがいいのかな?笑
うーん。
実は、この本めっちゃいいなぁ!とか、この人すごい、とか、わっ!なにこれおもしろい!とか
そんなのは日々あるんやけど、それ書いてなにかなるのかなって思ったり。
なんだか世の中というものがあまりに暗澹としていて…と言ったら大げさ?
個人レベルのちょっとした幸せや驚きや発見が自分のなかではしみじみ美しいのだけど、
こういうところで書くことに何の意味があるのだろうと…。
あまりにもひどい情報、あまりにもひどい言葉が入り乱れすぎてて
そんな真っ黒の海の中に自分のちょっとした感動を投げ込んだところでね。なんだかむなしいような。
って書いたらなんか暗くなっちゃうけど。笑
そんなめっちゃ悲観してるわけでもないのだけれども。
うまく言えない。
はぁ。眠い。
まぁまた書きたくなったら書こうかな。
自分の中の執着心の無さについて。
何にも、どこにも、本当に執着心というものが乏しい。
いつ手放してもいいものばかり。
なんでこんなかなーとおもう反面、こんなやから気軽に何でも始められるのかな、とも思う。
その時、その時に自分のまわりにあるものを大事に、大切にしようと思う。
おろそかになっていた人との連絡をきちんとして、働く準備も始めよう。
また新しい出会いがあって、学びがあって。
子どもたちはかわいくて、そんな今が尊いけれど。
でも、そろそろ未来のことも。
明日どうなるかもわからないけれど、けど、少し先の未来を楽しく想像してみよう。
そんな努力もまた尊いはず。
・・・
↑という文を自分の手帳につらつら書いていて、なんとなくここにも転記。
ドラッガーという人いわく、とても限られた人生において自らの苦手とすることを人並に引き上げるための努力をするよりも、自分の得意なことだけひたすら集中して取り組むことのほうがはるかに有益で成功への道だとかそんなことを言ったらしい。
全然ここには書かなくなってしまったけれど、某SNSではたまにごく短い文を写真とともに発信していて。
本当に短くて簡単なさらっとした内容。
日常のたわいもない一場面、そのときのちょっとした思いなど。
それを見た人から、実は更新楽しみにしてるだとか、もっと何か書いたほうがいいとまで言ってもらえることがちらほらあり。
どうなんやろう。
私は書いたほうがいいのかな?笑
うーん。
実は、この本めっちゃいいなぁ!とか、この人すごい、とか、わっ!なにこれおもしろい!とか
そんなのは日々あるんやけど、それ書いてなにかなるのかなって思ったり。
なんだか世の中というものがあまりに暗澹としていて…と言ったら大げさ?
個人レベルのちょっとした幸せや驚きや発見が自分のなかではしみじみ美しいのだけど、
こういうところで書くことに何の意味があるのだろうと…。
あまりにもひどい情報、あまりにもひどい言葉が入り乱れすぎてて
そんな真っ黒の海の中に自分のちょっとした感動を投げ込んだところでね。なんだかむなしいような。
って書いたらなんか暗くなっちゃうけど。笑
そんなめっちゃ悲観してるわけでもないのだけれども。
うまく言えない。
はぁ。眠い。
まぁまた書きたくなったら書こうかな。
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