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手をつなぐ

日々のこと、好きなもののことなどツラツラ書きます。

カテゴリー「日々のこと」の記事一覧

なんてことのない日々のために

他愛のない話。
うちの二番目さんはとても好奇心旺盛で、いつもトコトコと部屋中を歩き回っては、いろんな引き出しや扉を開けて検品作業をしている。
特に最近はシンク下の調味料の棚がお気に入りで、在庫を一つ一つ入念にチェック。
ウスターソースと米酢にいたっては、瓶の蓋を歯でこじ開けてまで確認しようとする。
そうはさせまいとすかさず瓶を取り上げると、うわーんと大泣き。顔を真っ赤にしながら両手をピンと伸ばしてちょうだいちょうだいのジェスチャー。
なんとも悔しそうにつらそうに泣く様子に心が揺らぎ、ついまた手に持たせてあげたら、瓶を大事に胸に抱えて、次の瞬間逃走した。
トコトコトコトコトコ!!
あ、コラ!と追いかけるも、追いつくまでのわずかな隙に、瓶から少し漏れ出た米酢を味見していてあっという間に口も手もお酢まみれ。
わー、こら、もう、なんで…!(後省略)
こんな場面が無数に散りばめられた日常を送っている。

今日の夜は鶏の骨付き肉を使って参鶏湯を作った。
サムゲタン。
冷たい雨の一日だったので身体の温まるやさしいものを食べたくなって。
ナツメと松の実、にんにく、もち米も一緒にグツグツと煮て、最後に栗を入れる。
調味料はシンプルに塩、少しの胡椒。
これだけでとても美味しい。
子どもたちもよく食べてくれる。
ホッとするひととき。



テレビはもともとあまり見ないけど、今は少しつけるだけですごい勢いの情報が飛び出してくる。
テレビの中がこんなにも恐怖と不安に満ちたときってあったかな。
必要な情報はもちろんあるけれど、それ以外からは距離を置いて、子どもたちと歌ったり、心を癒すものたちに触れながらすごそうと思う。

りんごがあるから明日はおやつにリンゴケーキでも作ろうかな。
パイナップルケーキもできるな…。
甘くなりすぎないようにしよう。





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大切なもの

ヘグムという楽器をずっと習っている。
初めて弾いたのは2011年2月のことらしい。
もう9年前のこと。

コロナウイルスが流行り出してから、ヘグムの先生の出演予定だったコンサートが軒並み中止、延期になったと聞いた。
教室の生徒コンサートも延期。
個人レッスンは大丈夫だと思っていたら当面自粛すると。
月に一回のレッスンは私にとっては本当に大事な時間。
音楽の世界に没頭できて、心がうんと満たされる。
期限つきとは言えそれすらも無くなってしまうのか…となんとも言えない思い。



幼い頃のはなし。
物心ついたころからずっと、父は仕事に忙しく家にほぼいなくて、いたとしてもほぼ自室にこもっていて、母は仕事に家事に妹たちの世話に忙しく、私はあまり構ってもらった記憶がない。
それを恨んだりとかは当時も今も無い。
けど、もしあのとき本が無ければどうなってたかな、とは少し思う。
記憶する限り、私は相当幼い頃からずっと本を読んで過ごしていた。
今思えば、たくさんの物語の世界が、幼かった私の心の拠り所になっていたのだと思う。
物語の世界が楽しくて面白くてそれさえあれば良かった。
本のないときにも心細くなったら空を見上げて勝手な空想の世界に逃げ込んだ。
嫌なことがあっても物語の世界に入れば忘れられた。

中学に上がったころからはそれが音楽になった。
嬉しいとき、悲しいときしんどいとき、ずっと音楽を聴いていた。
なんでもないときもいつも。
本当にずっと。
そして今みたいなこんなときにこそ。



あのとき、物語が、音楽が、あって良かった。
ささくれだった心が丸くなって
冷たくヒリヒリした気持ちが温まって
気づいてなかった何かに気づいたり、
懐かしい何かを思い出したり。
笑いがこみ上げたり、涙が出たり
そんな素敵なもの。
不要不急なんかじゃ絶対ない。
今も。
これからもきっと、ずっと、ありますように。




実感したい

こういうとき、何を思ってどういうモチベーションでいたらいいのかちょっとわからなくなってくる。
例のウイルスの件でいろんな選択を迫られる毎日。
何をどう選べば良いのかにも迷う。
もちろんどんな選択であっても未来は未定。
けど、あまりに不確実な"未定"が続くのに正直滅入ってきている。

ネガティブなことをあんまり言ったり書いたりするとなんだかその感情にすっかり飲みこまれてしまいそうで。
だから極力語らずじっと時が解決するのを待つ。
昔からわりとこんなふうにやり過ごしてきた。
でも今は…少し吐き出したいのかも。



小さい頃の記憶。
最古のものは、ベビーベッドの中で頭上を回るメリーを見ている記憶。
不思議とそのときの部屋のシンとした気配も思い出せる。
一人きり。赤ちゃんだったはずの私はそのとき泣いたのかな。それは思い出せない。

いつのまにか随分遠いところまで来てしまった気がする。
この先もそれなりに長いのかな。

はぁ…。元気が出ないとき、他愛のない話で笑ったりするのが結局一番いい気がする。
何はなくとも、ただその人の声を聞いたり、存在に触れたり、気配を共有したり。
同じときを生きる人がたしかにいて、その人も悩んだり悲しんだりしながらそこにいると。
それを心から実感できたら少し安心するような…
もっともっと実感したい。



ウイルスに負けない元気なこころ、からだ。
負けないぞー。

ぞー、ぞー、ぞー………。(小声)



おやすみなさい。





ちょっとした驚きと変わらないもの

このブログ、書き出したのがかれこれ10年くらい前のことらしい。
今、昔書いたものを少し読んでみていたら静かな驚きが何度も。
こんなこと考えてたのかぁと。
自分が書いたはずなのに自分のことばにびっくりする。


少し、ここに転記してみようかなと。
2013年の夏、資格の学校に通ってた頃に記したもの。タイトルは"耳をすませば"。

「学校帰り、お京阪に飛び乗って、三十三間堂へ行った。
私の大好きな場所。
何かに行き詰ったとき、答えを探しに出かける。

細長いお堂には、千体の観音像が所せましと並び、
その前を風神、雷神などの仏像たちがずらりと並んでいる。
見事というほかない造形美。
壮観。
中央には、大きな観音様が座っている。
その前でじっと手を合わせて祈った。

一周して、外のベンチでじっと考えていた。
とりとめのない、思考の旅をしていた。
時間はあっという間に過ぎ、閉堂まであと30分となったとき、もう一度、お堂を参拝してみることにした。
受付が終了した後だけあって、さっきまでの観光客のにぎわいが嘘のように
お堂は静まり返っていた。
歩みを進めて、自分の辿ってきた右側を見ると、誰もいない。
初めて見る光景。
静かな、とても静かな。
もう何度も来たけれど、自分が一番最後なのはこれが初めてやった。

幾体もの観音像と目が合い、そのたびに全身で声を感じ取る。
何も聞こえない。でも、聞こえる。
不思議な安堵感に、ホッとする。
中央の観音様の前に立ったとき、何かとても大切なことに気付いたような気がして
ハッとした。
その感覚を確かめようと反芻するけれど、まるでその先は自分で考えなさいと言われているみたいに
力が抜けていく。
確かなものなんて何もないのだとでもいわれているような・・・。
まるであらゆる可能性を肯定されたようで、気持ちが満ちていくのがわかった。
観音様はニッコリ微笑んでいるみたいに見えた。

・・

朝陽にキラキラ光る海を想像してみる。
夜の琵琶湖の真っ黒な湖面を想像してみる。
この二つは違うようでとても似ているな、と思う。
ずっと、こんなふうに自分の世界で遊んでいた。
小さいころ、私は毎日全力でクレヨン王国の世界を想像して、
すっかりクレヨンの国の住人だった。
いつもあらぬことを一人思い描いては嬉しくなっていた。
ときどき、この感覚が今も私を救ってくれているのだと感じる。
子どものまま、大きくならない自分がいる。
足りないところばかりやけど、些細なことに喜び、悲しむ感性はそのままでありたい。」

2013年のまた別の日に書いたもので、"沈黙は"というタイトルのもの、以下。


「長田弘という詩人の詩で『人生は森のなかの一日』というのがあって。
こうやって始まる。

"何もないところに、
木を一本、わたしは植えた。
それが世界のはじまりだった。"

グスタフ・クリムトの絵と共に流れる言葉たち。

何もないところに植えた一本の木はたった一本で
そんな儚いものが、どうやって世界をつくりだせたんやろう。
でももしそれで世界がはじまったのだとしたら、
それは希望以外の何物でもないな。

誰かと出会い、言葉を交わす。
思いを伝える。
そこから生まれる世界がある。

・・

さっき、ガラスのコップに水滴がついていて、
そのあとそこに置いた紙が濡れた。
ほんの一滴のしずくが紙を濡らす。
そして、文字をにじませる。

存在している限り、何かに影響している。
たとえば私が今涙を流したら
同じように紙を濡らし
文字をにじませるやろう。
もしももっとたくさんの涙を流したのなら
燃え盛る炎を少しばかり鎮めるのかもしれない。
たとえほんのわずかでも。

無駄なものなんて、きっと何もない。



"森の木がおおきくなると、
おおきくなったのは、
沈黙だった。

沈黙は、
森を充たす
空気のことばだ。"

・・

"次の日、きみがやってきて、
そばに、もう一本の木を植えた。
木が二本。木は林になった。

三日目、わたしたちは、
さらに、もう一本の木を植えた。
木が三本。林は森になった。"


沈黙は

世界のはじまりは 」




読んでみて、なんだかもう今は書けない感じのことばやなぁと。
一人きりで過ごす時間というものがほぼ無いからかな。
感受性が大きく変わったわけでは無い気がするけど、、、いや、感じ方も少し変わったかな?


今日のご飯はキノコカレー。
無水鍋でお肉と玉ねぎをしっかり炒めて、しめじ、えのき、しいたけをどっさり入れて蓋をしたら、ものの数分でお鍋の中が野菜の水分で満たされる。
カレーは冷蔵庫にある材料で手軽に作れるところがいい。
ミンチ肉にキャベツ、缶詰のひよこ豆をフライパンで炒めてドライカレーにしたり、サバ缶を使ってみたり。パプリカやオクラ、インゲン、トマトと夏野菜をどさっと使ったチキンカレーは夏の定番。冬は白菜なんかも使ってみたら子どもの好きな優しい味のカレーになる。
味付けはカレールーを使うこともあるし、カレー粉にコリアンダー、クミンなどのスパイスを少しずつ混ぜこんで作る日もある。
隠し味にしょうゆや味噌を足してみても美味しい。


今は生活の中のちょっとしたことが楽しかったりおもしろかったり、たまに悲しかったりギョッとしたり…やっぱりおもしろかったり。
ちなみに三十三間堂は変わらず大好きで、これはたぶんこれからも変わらないと思う。





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