手をつなぐ
日々のこと、好きなもののことなどツラツラ書きます。
遠い記憶
本当に気まぐれな、なにげない思い出のつれづれなる記録。
…
基本的に人と争いたくないと思っている。
・・なんやけど、よくわからないゴタゴタにしばしば巻き込まれることがある。
私が社会人になって初めて勤めた職場でのこと。
一番仲良くしていた同期の子がある日突然死んでしまった。
上司との関係に悩んでいた。
もともと鬱の既往歴があったことを後から知った。
私はたびたび涙目になっている彼女をすぐ傍で見ていたのに、事態の深刻さに全く気付けていなかった。
死ぬなんてのはもっと先の遠い遠くにあるものだと。
そのときはそう思っていた。
だからあの知らせを受けた日の夜の衝撃は今でも忘れられない。
何度も何度も反芻し、深く深く刻まれた痛い記憶。
一番最初に直面した”死”は、大学の同級生のそれだった。
彼女は拒食症でがりがりに痩せていた。
出会ったときにはそんな姿だったしそれほど親しかったというわけでもなかったので
そこまでの状態に至った経緯や詳細はよくわからない。
私はお通夜もお葬式も参列した。
お通夜の夜、高校時代の同級生らしき男の子たちが3人揃って棺の前でおんおん泣いていた。
遺影の中の彼女は別人のように綺麗で、私は彼女がとても美人だったことをそのとき知った。
いろんな人の涙から悲しみがつたってきたけれど、本当の悲しみはそのときの私にはまだわからなかった。
わかっていなかった。
・・・
同僚が死んだ後、私はだいぶおかしくなっていた。
まだ24歳だったし、本当の悲しみに出会ったのはそのときがおそらく初めてだったから。
どうしたらいいかわからず混乱した。
デスクワークをしながらわけもなく涙があふれてきたり、突然気分が悪くなって立ち上がった途端に倒れたりもした。
見かねた大人たちが慌てて、私をカウンセラーのもとへ連れていったり、
「人生、まだまだつらいことがこれからあるんだ、こんなことでくじけてちゃいけない」とお説教したりした。
あるときは「みんなを困らせて何がしたいの!」と叱られたりもした。
けど、どうしたらいいか本当にわからなかったのだ。あのときは。
今となってみたら、大人たちがそんな私を不憫に思っていたことや、
胸を痛めていたこと、ただただ励ましたい一心であったこと、そんなのがよくわかる。
あの頃。
仕事はその後も忙しくて、表面上は淡々とこなしていたけれど、いつも心ここにあらずで
どこにも自分の居場所がないような気がしていた。
私は何をしていけばいいのかわからなかった。
彼女が死んで、続けて入った後任の人まで死んでしまって、職場が大混乱になったとき。
上司が私を別室に呼んで、「君に会わせる顔がない。申し訳ない」となぜか謝られたこと。
労働組合の会合で、人が二人死んだのに、「この件については職場の問題として扱わない」と決まり、なんだか何もかもがどうでもよくなってその場で席を立ち会議室を去った夜のこと。
全くやりがいのない事務作業を淡々とこなしながら、それでも仕事だけは早かったから、余った時間、延々とネットを見て時間をつぶしていた時期もあったな。
そんなふうに過ごしていたら辞令が出て、ものすごく精神衛生の不良な部署への異動が決まった日の夜。
辞表を書いた。
翌日それを提出したら、人事権のある幹部職から直接呼出しをくらって、密室で2時間以上大声で罵倒された。
でもなぜだか全然怖くもなく平気で、半分以上聞き流していた。
最後に「考え直してきなさい」と言われたけど全く考え直さずに、翌日、「もうやることはやりきったので辞めます」とだけ伝えた。
幹部は呆れて笑いながら、「女の人は強いな、こんだけ言っても辞めるか」とだけ言った。
三日後、私は退職した。
・・・
なんだか本当にめちゃくちゃやったな。
本当にいろんなことが投げやりでどうでもよかった。
ただあのとき、父は私に、「死んだ子の件はどうなった?ちゃんと職場としてきちんと向き合うように訴えないとダメだ」と繰り返し言っていたんやった。
一度逃げたらこの先ずっと逃げることになる、とも。
この言葉が何度も何度も頭の中をぐるぐるとした。
けれど私は結局、その件については何もできなかった。
やろうともしなかった。
ただただ悲劇の中に一人いて、ふてくされて腐っていただけだった。
本当に何もできなかった。
何も。
…ということをふいに思い出していた。
とても遠い出来事なのに、なぜだか涙が出てきた。
でもこうして何度も思い出すことが一番の供養だと聞いたことがあるから
だからこれはこれでいいのかもしれない。
いつもは忘れているのにね。
忘れないでいるのはきっと難しいことだから。
だからここに書いておこうと。
もうすぐ満月。
長い長いひとりごとの夜。
…
基本的に人と争いたくないと思っている。
・・なんやけど、よくわからないゴタゴタにしばしば巻き込まれることがある。
私が社会人になって初めて勤めた職場でのこと。
一番仲良くしていた同期の子がある日突然死んでしまった。
上司との関係に悩んでいた。
もともと鬱の既往歴があったことを後から知った。
私はたびたび涙目になっている彼女をすぐ傍で見ていたのに、事態の深刻さに全く気付けていなかった。
死ぬなんてのはもっと先の遠い遠くにあるものだと。
そのときはそう思っていた。
だからあの知らせを受けた日の夜の衝撃は今でも忘れられない。
何度も何度も反芻し、深く深く刻まれた痛い記憶。
一番最初に直面した”死”は、大学の同級生のそれだった。
彼女は拒食症でがりがりに痩せていた。
出会ったときにはそんな姿だったしそれほど親しかったというわけでもなかったので
そこまでの状態に至った経緯や詳細はよくわからない。
私はお通夜もお葬式も参列した。
お通夜の夜、高校時代の同級生らしき男の子たちが3人揃って棺の前でおんおん泣いていた。
遺影の中の彼女は別人のように綺麗で、私は彼女がとても美人だったことをそのとき知った。
いろんな人の涙から悲しみがつたってきたけれど、本当の悲しみはそのときの私にはまだわからなかった。
わかっていなかった。
・・・
同僚が死んだ後、私はだいぶおかしくなっていた。
まだ24歳だったし、本当の悲しみに出会ったのはそのときがおそらく初めてだったから。
どうしたらいいかわからず混乱した。
デスクワークをしながらわけもなく涙があふれてきたり、突然気分が悪くなって立ち上がった途端に倒れたりもした。
見かねた大人たちが慌てて、私をカウンセラーのもとへ連れていったり、
「人生、まだまだつらいことがこれからあるんだ、こんなことでくじけてちゃいけない」とお説教したりした。
あるときは「みんなを困らせて何がしたいの!」と叱られたりもした。
けど、どうしたらいいか本当にわからなかったのだ。あのときは。
今となってみたら、大人たちがそんな私を不憫に思っていたことや、
胸を痛めていたこと、ただただ励ましたい一心であったこと、そんなのがよくわかる。
あの頃。
仕事はその後も忙しくて、表面上は淡々とこなしていたけれど、いつも心ここにあらずで
どこにも自分の居場所がないような気がしていた。
私は何をしていけばいいのかわからなかった。
彼女が死んで、続けて入った後任の人まで死んでしまって、職場が大混乱になったとき。
上司が私を別室に呼んで、「君に会わせる顔がない。申し訳ない」となぜか謝られたこと。
労働組合の会合で、人が二人死んだのに、「この件については職場の問題として扱わない」と決まり、なんだか何もかもがどうでもよくなってその場で席を立ち会議室を去った夜のこと。
全くやりがいのない事務作業を淡々とこなしながら、それでも仕事だけは早かったから、余った時間、延々とネットを見て時間をつぶしていた時期もあったな。
そんなふうに過ごしていたら辞令が出て、ものすごく精神衛生の不良な部署への異動が決まった日の夜。
辞表を書いた。
翌日それを提出したら、人事権のある幹部職から直接呼出しをくらって、密室で2時間以上大声で罵倒された。
でもなぜだか全然怖くもなく平気で、半分以上聞き流していた。
最後に「考え直してきなさい」と言われたけど全く考え直さずに、翌日、「もうやることはやりきったので辞めます」とだけ伝えた。
幹部は呆れて笑いながら、「女の人は強いな、こんだけ言っても辞めるか」とだけ言った。
三日後、私は退職した。
・・・
なんだか本当にめちゃくちゃやったな。
本当にいろんなことが投げやりでどうでもよかった。
ただあのとき、父は私に、「死んだ子の件はどうなった?ちゃんと職場としてきちんと向き合うように訴えないとダメだ」と繰り返し言っていたんやった。
一度逃げたらこの先ずっと逃げることになる、とも。
この言葉が何度も何度も頭の中をぐるぐるとした。
けれど私は結局、その件については何もできなかった。
やろうともしなかった。
ただただ悲劇の中に一人いて、ふてくされて腐っていただけだった。
本当に何もできなかった。
何も。
…ということをふいに思い出していた。
とても遠い出来事なのに、なぜだか涙が出てきた。
でもこうして何度も思い出すことが一番の供養だと聞いたことがあるから
だからこれはこれでいいのかもしれない。
いつもは忘れているのにね。
忘れないでいるのはきっと難しいことだから。
だからここに書いておこうと。
もうすぐ満月。
長い長いひとりごとの夜。
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